1995年3月13日月曜日

明 け が た



12" x 42"

夜が明けるまえ、家々はまだ寝静まっていて、うす暗くひっそりとしたひとときがある。 それを日本人は暁闇(ぎょうあん)という。 作家井上靖の随筆に、次のくだりがあるが、暁闇の雰囲気を上手に表現していると思う。

「夜明け前のくらやみは、幕あけ前の舞台のようにしいんとしていて、期待と興奮がみちみちてる。」

私の脳裏にある夜景は、Las Vegasのようにきらきらと輝いていない。 むしろ、San Joseのように、山に囲まれていて、ほかに何の飾りもないが、日があけると、興奮した雰囲気で一杯になるところを考えていた。 この絵から、そうした場所の夜明けを、感得していただければ幸いである。

Mr. and Mrs. Sundar Subramanian 所蔵。

緑 陰



34" x 26"

五七五に限られた俳句では、季語が重要な役をつとめる。 というのは、5シラブルで季節に関するいろいろな観察が表現できるからである。 たとえば、初夏の季語「緑陰」は、都市の庭園や公園での木陰の涼しさを意味する。 山本健吉の歳時記によると、「明るい初夏の日ざしの中の緑したたる木立の陰を言う。木蔭に織り出す縞が美しい。」

このカンバスでは、初夏の庭園の涼しげな空間を画いてみた。
緑陰の
あや織りなして
木の下に

桜 の 宴



48" x 30"

さくらの季節といえば、パーテーの季節! 気温もあたたかく、長い冬はやっと過ぎた。誰も彼も、生きることを楽しみたいとおもう。 さくらが見えるビルでは宴会が用意され、さくらの木の下には、ピクニックの毛布がひろげられる。 親しい人たちと一緒にさくらを楽しむのは、昔からの風習である。 俳聖芭蕉は次ぎのように観察している。
「木のもとに
汁も膾(なます)も
桜かな」
ほんとうに楽しそうなピクニックが眼にうかぶ。 私は、その悦びあふれた情景に、子供たちを加えて、次のように詠む。
まり遊ぶ
児たちの髪に
花かざり

花 の 雲



28" x 54"

ときは四月。やわらかな陽のひかりと、花ぐもりの空と、満開のさくらが、一緒にとけ合うときである。 17世紀の俳聖芭蕉は、次の有名な句をのこしている。
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」
さくらの花が、いかに広い区域にわたって咲き誇っているかを、芭蕉は、鐘の音に焦点をおき、数十マイル離れた二つの地名をならべて、その距離感と、豪勢さを表現した。

私は、この句に促され、横に細長いカンバスを選んで画いてみたが、鐘の音を表現することは出来なかった。 言葉の力を前にして、またまた頭を下げずにはおられず、自作の句を、おそるおそる記する次第である。
鐘の音や
桜をわたり
あちこちに
Mr. and Mrs. Frederick M. Overholt 所蔵。

りんご の 香り



48" x 37"

20世紀ロマン派の詩人北原白秋の作に、次の短歌がある。
「君かえす朝の敷石さくさくと
雪よ林檎の香のごとくふれ」
白秋は、官能的でリズミカルな詩歌で知られている。 この短歌は、その好い例だと思う。

...朝が来た。女は家を去る。夜の間に雪が降りだしていた。しんしんと無心に降りつずく雪... あたりは静まりかえっている。処女雪を踏みしめてゆく愛人の足音を聴きながら、さわやかな林檎の香りを、男は連想する。そして雪が、林檎の香りのように女を抱きしめよといのる。

思いがけない雪と林檎のくみあわせは、私の想像を刺激する。 彼らのランデヴ-は、熱く完全な結合だったにちがいない。 「りんごの香り」で、そうしたロマンチックな満ち足りた感覚を、雪の降る夜明けを背景にして表現したいとおもった。

The Princeton Review, NY 所蔵。