1990年3月13日火曜日

枯 れ 葉



36" x 48"

枯れ葉というテーマが、 昔から詩や歌によまれてきたのは、それが、生きるという人間のドラマに触れるからだと思う。数年まえ、次の俳句を日記にかきとめたが、作者はおぼえていない。
「一枚の 枯れ葉とわれと 何異なる」
何かじっと考えさせられる晩秋を背景に、最後の落ち葉を絵に描いていたころだった。物事の最終段階、いわばフィナーレの美しさを、木の枝にまだのっこている枯れ葉、ひらひらと落ちてゆく枯れ葉で、表現したいと思った。

刈り入れ の あと



50" x 58"

アメリカでは、秋もなかばを過ぎると、ハイウェーの両側は、刈りとったとうもろこしの茎がたちならび、売れ残りのパンプキンと一緒に、ぬくぬくと太陽の光をあびている。収穫がすんだあとの、静かな一景である。
もろこしの
枯れ茎立って
かかし去る
脱穀したあとの藁塚がそちこちにのっこている野辺の風景は、ヨーロッパでも、アメリカでも、日本でも、共通の画題である。「刈り入れのあと」では、そうした一年間の労作のフィナーレを、超現実的に表現したいと思った。

花 み だ れ



31" x 41"

1989年の年明けに、私はヴァージニヤからカリフォルニヤのCarmel Valleyに移った。この谷をかこむ丘陵は、White-Oakという傘の格好をした樫の木が生え茂り、そのなかに近代建築の家々がたっていた。 私の家も、そうした丘の中腹にあり、愛犬をつれて頂上まで登るのが、私の日課となった。 樫の森は、鹿の棲家でもあり、都会育ちの私には、90度転向の環境であった。 

初夏の森はことに生き生きとしている。 丘の頂上から見下ろす谷は、黒々とした樫の木に被われているが、中腹から上は、色とりどりの野生の花が咲きほこり、そのなかを、鹿の通り道が頂上までつずく。 この絵で、そうした環境に住む悦びを、率直に表現したいとおもった。
山頂まで
鹿の通い路
花みだれ